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本書で紹介できなかった本 その1:『与論島移住史』
2004年1月。与論に向かう前に打合せをした編集者は、
旅行ガイドブックの編集者にしては、気のきいたことを言う人だった。

 ヨロンって、何も考えずにアタマをスッカラカンにできる島って
 いわれてるけど、それだけじゃないはず。
 その「それだけじゃない」を見つけてきてほしい。

このKさん(≠kamezoさん)の強い推薦のおかげで
私は念願の奄美の島々フェリー北上の取材行が
できることになったんだし、
「おまかせくだされ!」の勢いだった。

与論を案内してくれた人、出会った人と話をしていて、
何度か「口之津」の地名が出る。
だけどどうも私にあまり聞こえないように
島の人同士でコッソリ、合い言葉のような感じだった。

「口之津って、長崎の? 与論とつながりがあるんですか?」
思い切って聞いてはみたけれど、無知丸出しである。
(戻ってから与論町のHPを見直したら、「与論町の沿革」に
ちゃんと書かれているのだから、下調べがいい加減なこと極まりない。)
そんな私は、「うん、まぁ……」とことばを濁された。

とても話しにくいことか、
話したくないことが「口之津」にある、ということはわかった。
何なんだろう。。。

やっとひとり、重い口を開いて手がかりをくれた。
「移民……があったですよ。明治に……。一言じゃ言えません」

その人の表情は、辛いでも哀しいでもなかった。
もう終わったことだ というあきらめでもなかった。
いまにも泣きそうでもあり、遠くを見やっているようでもあり、
でも「これ以上、聞かないでくれ」「これ以上、話させないでくれ」
といっていることだけは、しっかり伝わってきた。
そしてもうひとり、一緒に居合わせた人も、
寂しいような当惑したような、それを隠すような微笑みで
同じことを言っていた。


戻ってから沖縄・奄美関係の書棚が割としっかりしている大型書店で、
すぐに見つかったのが、この本。


 『与論島移住史 ユンヌの砂』
(南日本新聞社編 南方新社 2005年)












明治32年に240人、
明治33年に100人、
明治34年に400人……。
口之津への募集は、その後もたびたび繰り返された。せっかく移住しても、また島に舞い戻った人もいたので、かなりの出入りがあるが、一番多い時期、口之津には家族もふくめて千二百二十六人の与論島民がいたという。明治末期の島の人口はおよそ五千六百人程度とみられるので、その五分の一以上が、ピゼン(肥前)に移り住んだわけである。戸長みずから先頭に立ったことでもあり、まさに「分村」と呼ぶにふさわしかった。
(『与論島移住史 ユンヌの砂』)
  
与論島の移民は口之津だけではなく、
昭和18年から19年にかけて満州へも行われた。
三池へ千数百人の集団移住者を送り出したあとも、島の人口はへるどころか、戦争前の昭和十年代には、八千人を超えていた。
「木なら間伐もできるが、人間はそうもいかん。第二の集団移住を考える時が来た」と、村の当局者たちが考えたのも、自然の成り行きといえる。(『与論島移住史 ユンヌの砂』)

与論島は耕地面積が島の約53%と、
ほかの奄美の島々に比べれば耕地面積の割合は大きいが、
島の面積が約20.5平方キロメートル、東西5km、南北6km、
周囲23km余りの小さい島だ。
(与論島民だけの満州開拓団より先に
奄美と沖縄の混成による開拓団と、
奄美大島・宇検村からの開拓団が行っていたようだ。)

島で生きる、ということは、
なんと多くのことを引き受けなくてはならないのだろう。
でも。日本という国自体、島国なんだ。


誰かにインタビューをするということは、
トランプの神経衰弱のカードをめくるようなものだ。

私が与論でひっくり返した「それだけじゃない」のカードは
思いもかけず自分の足元に飛んできた。
でも、島で話をしていると、こういうカードは珍しいくないとも思う。

そして私はまだ「移民」のカードを1枚しかひっくり返していない。
こんど与論に行く前には、もう一度この本を読み直して
2枚目のカードをめくろう。



[与論島]
| シマ情報 | 00:08 | comments(3) | trackbacks(0) |
コメント
口之津には奄美群島内のほとんどの島から移住しています。
沖永良部島に関する新しい史料が昨年口之津で発見され、話題になりました。私も上下連載で書かせていただいたのですが、沖永良部島民の労働実態の一端を明らかにする興奮度120%の史料です。

移住史については、まだまだ分からないことだらけだろうですが、島の移住史を解明することは近代日本がどうやって出来上がったのかを考えることでもあるでしょうね。日本という国の底辺を支えた島びとたちの存在があったこと、ヤマトンチュとしては肝に銘じたいところです。
| saito | 2007/04/02 12:46 PM |
saitoさん、その連載、読みたい!

西郷さんにまつわる感情にも、島が明治維新(の偉人)を支えた、という思いがあるように感じます。

そういえば、満鉄の枕木には住用の山の木をずいぶん切ったんですよね。
| sarah | 2007/04/02 7:03 PM |
sarahさん、喜山です。

それが対話として必要なんだと思っています。
明治維新の舞台を支えたという奄美・琉球からの表明と、
そのことに対する薩摩・鹿児島の頷きという対話が。

がんばります。(^^)
| 喜山 | 2007/04/02 8:28 PM |
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