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盤山
4日の南日本新聞から。
かりゆしバンド 盤山訪れ与論民謡/錦江


先日紹介した『与論島移住史―ユンヌの砂』によると、盤山への入植は昭和21年7月18日から行われた。
昭和19年、与論から開拓団として満州に渡った人たちは、一番多い時期で145戸、635人。昭和21年6月、やっとのことで日本に戻ってこられた人たちは、多くはなかった。

けれどすでに昭和20年2月2日、奄美の島々は米軍統治下に。帰島希望者はヤミ船などで戻るしかなかった。

家も畑も売り、家財道具もほとんど売り払い、満州へ持っていったわずかな家財道具はすべて失い、島に戻りたくても戻れない人たちは、本土で開拓をやり直す。それが鹿児島県肝付郡田代村(当時 現・鹿児島県肝属郡錦江町)だった。

 先遣隊が切り開いたわずかな山畑に、サツマイモや野菜が植えてあるが、標高五百メートルの急傾斜地で、早くも晩秋のうすら寒い風がふきつけてくる。
 「こんなところで、イノシシならともかく、人間が果たして生活できるのかしらと、不安で、不安で、夜も眠れないくらいでした」
と、ある女性は当時の印象を語る。
 それでも、これで五百十四戸、二百六十人の入植者が全員そろった。満州移住の時にくらべて、数こそ三分の一にへっているが、多くの試練に鍛えられて、みんなの意志はかたい。
 遺骨を抱いて入植した家族もいる。満州で無念の涙をのんで死んでいった人たちのためにも、生き残った者たちががんばらなくてはならない。
 いつしか「満州を忘れるな」がみんなの合言葉になった。開拓地の名前も、満州の開拓地をそのまま引きついで「盤山」とした。
(『与論島移住史―ユンヌの砂』)


かりゆしバンド掲示板にも当日の様子が少しあります。


[与論島]
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